2008年11月30日(日) アウェーFC東京戦 現地観戦
0−1 得点者:赤嶺 だけど実は勲??
11月最後の日曜日、朝からすごくいいお天気だったけれどスタ内は肌寒い風が吹きぬけ、試合の始まる16時を過ぎるとだんだん日も落ちてますます寒くなる。
試合もお寒い内容で試合後の選手のコメントの中には「決定機はウチのほうが多かった」「決定機を決めていれば。次こそは決めたい」といういつものコトバ。
しかしね、アフターゲームショーで解説の川勝氏が言った「ほんのちょっとの差とよくいうけれど、実はそれはちょっとではなく大きな差」なのだと私も思う。
サッカーの試合を見ているとシュートがゴールポストに当たって跳ね返ってしまったり、キーパーにあとちょっとのところではじき返されてしまったり、そういう「あああああ、あれが入っていればなあ、あとちょっとだったのになああああ」というシーンによく出くわす。
私もサッカー見始めのころはそういうのを思い返しては"相手との差はちょっと、今回は運がなかっただけ"って思っていた。
でも違うんだよね。
それは「運」の差ではなく「実力」の差だ。
技術や能力のある選手は、ポストやバーに当てずに確実にゴールネットを揺らす。
キーパーの指一本先にボールを流し込む。
その1センチ2センチをコントロールできるかできないかが実力の差なのだ。
だから選手コメントで「決定機はウチのほうが多かった」って言われても「それが何?」と思ってしまう。
その決定機を決めてこそプロだろう、と思う。
ワンチャンスでも得点したほうが勝つというスポーツだろ、サッカーは。
技術点を積み重ねて得点を競うわけではないんだからさ。
試合ダイジェストで惜しいチャンスとして流された映像を見ても、実はそんなに惜しくないじゃん、というのもけっこうあったんじゃない?
シュートコース消されてるのに工夫もなく打っているシュートは惜しいシュートなのか?
私にはよくわからん。
試合後(というか終了間際から)、ゴール裏はアルビレックスコールを続けた。
でも私も夫も、とてもそんな気分にはなれなくて無言だった。
「次がんばれつぎ」って言い続けてもう最終節っすよ。
とにかく選手を応援することがゴール裏の第一義、なのは認めるけど、結果が出ないのにも関わらず拍手とコールで迎えるのはどうなん?
「負けていちばんツライのは選手」とかもよく聞くコトバだけどほんとにそう?
選手にとってサッカー(試合)は仕事だよ。
たぶん落ち込むことはあっても、負けは負けでサラリと受け流してケロリと生活しているよ。ぜんぜんツライなんて思わないって。
別にそれが悪いわけではなくて、そういうもんでしょ。当然。
普通に私たちが仕事してミスったって、「ツライのはミスした社員」とかいってみんなが優しく甘やかしてくれるかい?
上司からだって客先からだって厳しくいわれるだろ普通は。
ミスした社員だってそりゃツライだろうけど、毎日の生活までどよよんと引きずり倒すことはないしさ。普通に生活するじゃん。
たとえが長くなったけど、「負けてツライのは選手」なんだからブーイングできないとか責められないって、なんかおかしいと思うのは自分だけなんだろうか。
ウチがJ1に昇格したときケンタロウが「サポーターのみなさんおめでとうございました」っていってみんながちょっとほほえましく笑ったけど、山形で昇格を決めたミヤも同じこと言っていた。
つまり、選手自身は自分たちはサポに「おめでとう」っていう立場だと認識してるわけだよね。
チームから「勝利」を求められてサポに「期待」されてその「勝利を実現させる」ための契約をしたのが選手なんだよね。
だから「自分は任務を果たしたよ、期待どおりの結果になっておめでとう」っていうのが選手の気持ちなんだろうな、と思うわけ。
であれば、勝利を実現できなければ叱咤されるのもある意味当然なのではないの?任務を果たせてないんだからさ。
そりゃ、不条理な非難をするのはいただけないし理解もできないけど、残留がかかった一戦で絶対に勝ちを狙わなければならない大事な試合で1点も取れずに負けてしまっても、それでも叱咤しちゃならんわけ?
そこまで神聖でアンタッチャブルなのかい?
「こんな雪国に来てくれる選手は大事にしなくっちゃ」っていうのもたまに聞くけど、それってプロを甘くみてないか?逆に相手をバカにしてないか?
だったら雪国に住んで仕事している人はみんな大事にされなくちゃね。
仕事に貴賎はないだろ。
別に騒ぎを起こした人たちを擁護するわけではないけれど(というのも詳しい状況は分からないから)どうしてもこの試合のゴール裏には違和感を覚えざるを得なかったよ。
試合後に結果が出なかったことに対してある程度感情が爆発してしまうのは当然だろう。
その感情の起伏を味わうこともスポーツ観戦の醍醐味のひとつだし。
ただただひたすらに選手を称えることが「チームに対する愛」だとするのなら「愛」の認識が違うとしかいいようがない。



